素敵な本との出会いが難しくなってきました。
じんわりと活字中毒者を増やしたい卓袱堂ブックス。
御意見、御感想など、お聞かせ下さい。

 

 



 上野・御徒町・秋葉原・・・猥雑で賑やかだけど、取り残されたような寂しさが付きまとうこの界隈で、無関係の男が3人『ボロメオの環』のように絡み合う3つの物語。冒頭、いきなり車にはねられて死んでしまう木原は血だらけのコートを着て、救急車や群がる人の輪を背中に意識したまま約束の上野広小路『風月堂』へ向かう。野球部の旧友、クラブの雇われママをしている幼なじみなどと電話で話し、死の象徴である『あやめ』という花について、見ず知らずのバーテンダーに説明をはじめる・・・同じ日、築地で鰈(かれい)を4匹仕入れた土岐は、アイスボックスを抱えたまま地下鉄に乗り込む。病に蝕まれた身体に注ぎ込まれたアルコールと、回顧する懺悔の日々。無人の車内では得体の知らない黒い物体に取り囲まれ、それは時に人の姿に変わり彼にのしかかる。腐敗し悪臭を放つ鰈にちりばめられた無数の斑点は星となり、その押し返してくるような白くて甘い肉に眩しい生命を汲み取ろうとするが、この地下鉄はもう二度と現世に戻る事はないのだ・・・女のひかがみ(膝裏のくぼみ)に究極のエロスを感じる真崎は、父の代から受け継いだ『真崎鳥獣店』の2階に暮らしている。ペットの殆どは処分し、残っているのは数匹の蛇だけだ。空想の妹と添い寝し、そのひかがみに触れたい欲望と戦う日々。若く美しいバーの女・珠実に気に入られ一夜を共にするのだが、彼女を巡って友人が死に、飼育ケースから脱走した蛇は増殖を続ける・・・
 うすら寒い年末の東京で、生と死の間を彷徨う3つの魂には希望の欠片も見あたらない。なのにそこに見え隠れする恍惚の瞬間は何だろう?死ぬことに不安を抱いているのは、現世に希望があるから?それとも・・・

 ジャン・リュック・ゴダールについての評論が非常に興味深い松浦寿輝。彼が創り出す幻影世界は暗く、美しく、エロい。誰もが辿り着く『死』を鮮やかに、ある意味で希望を持って描き出す文才は驚くばかり。生死の境は1本の線では区切れないborderlands(境界地帯)なんだよな、やっぱり・・・


『あやめ 鰈 ひかがみ』
松浦寿輝著
2004年
講談社 
1600円(税別




 本屋に山積みにされたベストセラーにウンザリしたとき、深呼吸するような気持ちで文庫のコーナーを眺めてみる。そこには文学界の巨匠達が書き残した、まだ読んだことのない本が沢山残っている。夏目漱石の書いた晩年の哲学論などは読むのに覚悟が必要だが、川端康成なら電車の中でも読めそうだ。タイトルに惹かれてこの本を購入してみた。
 美しい湖畔に暮らす事は、私が長年持ち続けている夢のひとつだ。カナダ人ピアニスト、グレン・グールドが若い頃に過ごした湖畔の映像は何度見ても胸が躍るし、廃刊になったヘルマン・ヘッセの「湖畔のアトリエ」という本を探すため古本屋に通った。名前に「湖」の文字が入っている昔の恋人と、そのルーツとなった小さな湖の畔で暮らす計画を立てたこともある。イメージ通りの湖畔を見つけることは容易ではないのだが・・・。
 美しい女を街で見かけると、後をつけずにはいられないストーカー男・桃井銀平は、逃げ際に女が投げつけたハンドバックを拾い上げ、中に入っていた大金を手にして軽井沢へ逃げる。ネオンに誘われるようにして入ったのはトルコ風呂。湯女の美しい声に聞き惚れながら、過去の日々を回想していく。教え子との恋愛事件で国語教師の職を失った銀平の行動は、私にとって決して不可解な事ではない。ロマンチックなこの変態は、優しさと知性を持ち合わせている。祭の夜にあとをつけていった美少女が、病床の恋人に蛍を届けたいと話しているのを盗み聞きして、少女の腰に27匹の蛍が入った籠をそっとぶら下げて立ち去る。そんな男なのだ。
 心の深い闇を「みずうみ」に例えたこの本は当時、その不快な読後感(私はそう感じなかったが)から困惑や嫌悪などの厳しい批判を受けたらしい。「雪国」や「伊豆の踊子」で表現した日本(人)の美しさを、まるで汚しているような「みずうみ」だが、逆に人間臭くて正直な清々しさを感じずにはいられない。ノーベル文学賞のイメージから、ちょっとなじめない気がしていた川端康成が、ずっと身近になった。なにより表現力、想像力が凄い。そして巨匠の本は安く感じるなぁ。美大生の絵とピカソの作品が同じ値段で売ってるようなもんだ。一読の価値アリだよ、昔の本。


『みずうみ』
川端康成著
1955年
新潮文庫 
324円(税別




 西アフリカの少年兵ビライマが語るこの本はフィクションだ。実在する街や人物も出てくるけど、少しだけ本物と違ったりする。わずか数年前まで現実に起こっていた(今も終わったわけじゃない)シエラレオネ・リベリアの惨劇をなぜ、物語として書く必要があるのか?私を含めて、何も知らないで済ませてきた人間が溢れるこの世界に対するとてもハードなメッセージを淡々と、時には笑ってしまうほど乱暴で軽やかな文体で綴るこの本をなかなか紹介できないまま、もうすぐ1年が経とうとしている。4回読み直したけど、毎度のように混乱したままそこにフワフワ漂っている行き場のない気持ち。読むたびに見つけてしまう新しい発見。今回も文章に出来ず消される運命なのか?
 ある学校の午後。落とした鉛筆を拾おうとした少年雷ジョニーが身体を屈める。若い女教師はスカートの中を覗かれたと思ってこの子をボコボコにひっぱたく。たまらなく校庭に逃げ出した雷ジョニーを、先生に命令された別の少年が追いかける。逃げるためにやみくもに投げた石が少年の頭に当たり、死んでしまう。雷ジョニーは行き場をなくして森に逃げ込む。そして少年兵に志願する・・・。
 少女サラは親戚に預けられて暮らしている。毎日、市場までバナナを背負ってそれを売るのが仕事だ。ある日、男がバナナを盗んで走り去った。急いで追いかけていったけど捕まらず、戻ってみると他のバナナも全部盗まれていた。お金が貯まるまで物乞いで暮らすしかない。やっとお金が貯まったのは数日後。帰ったって信じてもらえないし、ムチでぶたれるだけ。サラは通りの子になる。レイプされ、飢えて、それでも生き延びるためにチャイルド・ソルジャーになる。
 主人公ビライマ少年はマーンおばさんを訪ねるために旅を続ける。相棒はグリグリマン(呪物師)のヤクバ。彼らは行く先々で部族戦争に巻き込まれ、ビライマ少年はハシシュをキメて楽しそうにカラシニコフをぶっ放すのだ。そして、友達の少年兵が死ぬと、気まぐれで彼らの生い立ちを語り出すのだ。そこにあるのは哀れみでも絶望でもない、ただそこにある現実。幸せの尺度が相対的である以上、感情移入さえもさせてもらえない現実をこうして知らされるだけ。
 選挙を妨害する為だけに、腕がなければ投票できないという呆れた理由で、赤ん坊を含めた市民の両腕を片っ端から切り落としていったフォディ・サンコーは、後にシエラレオネの副大統領になる。こないだ死刑宣告されたばかりの男なのに。次々と登場する実在の重要人物達は皆、想像を絶する極悪人だけど、なぜか非難しきれない。そう、本当に悪いのは彼らじゃないから。何も知らない、何も知ろうとしない平和ボケのリッチな国民の方がずっとタチが悪い事を知っているから。
 大地に立った自分の目線で、見渡す限り死人の山を数えたら何人ぐらいになるのだろうか?この戦争で死んでいった、ぶかぶかの軍服を着たチャイルド・ソルジャーの数はリベリアだけでも6万人以上と言われている。想像しよう。両腕のないお母さんが両腕のない赤ん坊にミルクを与える情景を想像しよう。野次馬根性や自己顕示欲でむやみに危険な国へ行くことよりも、多くの人が世界の今を想像できる方法を模索していきたい。

 それにしても、この本を訳した真島一郎ってどんな人だろう?全体の2割ほどを占める訳者解題は、それだけで1冊の本と言えるくらい凄い。こちらも億劫がらずに読んで下さい!


『アラーの神にもいわれはない』
アマドゥ・クルマ著
真島一郎・訳
2003年
人文書院 
2400円(税別




 レアル・マドリードは気に入らない。マイクロソフト社も好きになれない。そして帝国ホテルが嫌いだ。ガールフレンドは昔、帝国ホテルでロマンティックな時間を過ごした事があるという。ますます嫌いになった。相手の男性にではなく、このホテルに嫉妬しているのだ。

 高圧的なイメージの帝国ホテルを見上げる場所に日比谷公園がある。今年、開園100周年を迎えたこの公園に集う緩やかな時間が小説の主人公だ。
 男は毎日、地下鉄日比谷駅の公園口からうつむいたまま、大噴水広場まで歩く。遠くのものを見ないよう、死にもの狂いで餌をついばむ鳩たちを踏まないように。噴水を囲むベンチに腰掛け、ネクタイをゆるめて目を閉じる。そして深呼吸をして、一気に顔を上げて目を見開くのだ。大噴水、深緑の木々、その向こうにそびえる帝国ホテルの遠近が乱れて起こる、軽いトランス状態を楽しむために。
 女はいつも心字池を見下ろすベンチに座り、スターバックスのカフェモカを飲んでいる。でも、ほんとはスターバックスがあまり好きではない。『あの店に座ってコーヒーなんかを飲んでると、次から次に女性客が入ってくるでしょ?それがぜんぶ私に見えるの。一種の自己嫌悪ね』
 2人が偶然に地下鉄の中で出会う前から、女は男の事を知っていた。公園の中に自分のテリトリーを持つ者同士が通わせる、はかない空気が心地いい。文章に引き込まれていく感覚はないが、自分のことを思い出して、ときどき活字から目を離してしまう。不思議な小説だ。

 ガールフレンドと行った日比谷公園の事。突然、睡魔に襲われた彼女を横にさせ、私は大噴水を眺めていた。小説の男とは反対側、帝国ホテルに背を向けたベンチが私のお気に入り。熟睡体制に突入した彼女の頭が少し重くなって、私の心は軽くなる。こんな日は帝国ホテルにも優しい気持ちになれる。いつの日か、公園内のレストラン『南部亭』で彼女と食事が出来たらいいな、と考えていた。その時、何かが変わるような気がして。

 読者の『公園生活』を引っぱり出してしまう小説『パーク・ライフ』。書評まで私事ですみません・・・。
 


『パーク・ライフ』
吉田修一著
2002年
文芸春秋 
1238円(税別




 何が本当なのか。何が正しいのか。私たちは新聞・テレビジョン・インターネットなどで多くの情報を手に入れられます。けれどもやっぱり、真実と確信できる情報を手に入れることは、入手できていたとしても確信することは出来ません。
 アメリカが、イラクを攻撃しようとしています。査察団にウソをついているのは本当なのか。攻撃を正当化するために、査察団がウソをついているのか・・・。何もわからないけど、日本からはイージス艦がペルシャ湾に向かいました。国民の希望だったとは思えないのに、日本がこの戦争に参加することが決まりました。
 バグダッドの様子が時々テレビに映されます。イラクの人々が市場を歩いているのを見ると、思い出さずにいられません。私の住んでいた、愛すべき街カイロとそこで暮らす人々の事を。彼らの屈託のない笑顔を。あまりにも似ているからです。
 正しい事なんてわかりません。それぞれに言い分があることも本当でしょう。ただ、攻撃されるかもしれない普通の人々のことを考えたいと思います。自分に置き換えてみようと思います。『ナシリヤの町で、一人の男がロータリーの縁石を白と緑に塗り分けていた。走る車の中から一瞬見ただけだが、ペンキの刷毛を動かすその手の動きをぼくはよく覚えている。世界中どこでも人がすることに変わりはない。自分と家族と隣人たちが安楽に暮らせるように地道に努力すること。それ以外に何があるか。』
 明日家族が、友人が、恋人が、空から降ってくる爆弾で腕を引きちぎられ、腹から腸やら肝臓やらが飛び出して叫んでいることを想像しましょう。自分に向かって『助けて・・』と見上げている目を想像しましょう。少なくとも今のイラクにアメリカをそんな恐怖に追い込む力はありません。力のバランスは全くとれていません。
 プラカードを掲げて『戦争反対!』と叫べるほど現状は把握していませんが、戦争によって起こる事は想像できます。『この戦争を止められなかったら、次の戦争も止められないだろう。国際政治を動かすのは議論ではなく武力ばかりになるだろう。』
 世界中、全ての人たちに『これから殺されるかもしれない普通の人たち」の事を知って欲しいと思います。


『イラクの小さな橋を渡って』
池澤夏樹・文
本橋成一・写真
2003年
光文社 
952円(税別




 目の前にいるこの人は、本当に私が認識している形をしているのだろうか。例えば本当はオレンジ色のネバネバで、声だって蝉の鳴き声のようで。偶然、私の五感を通ったときに、私に似た形をして私にわかる言葉が聞こえるだけなのかもしれない。或いは、本当は私が知っている言葉で形容できないような存在なのかもしれない。そして私自身は?
子供の頃、そんな問いに憑かれたときがあった。
 決着がついたわけではないが、しばらくするとどうでもよくなった。私が見て聞いて感じていることが全てだということにしてしまった。言ってみれば、諦めたのだ。
 諦めないと、途方もない旅を続けなければならないことになる。
「彼は思った。ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では、偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目に見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ。」
 饐えた匂いが漂う港町の死体置き場の番人スピーノと、ある日運び込まれたノーボディと名乗る死体。「誰でもない」死者について唐突に探りだしたスピーノの前に、どこにも結びつかない暗号ばかりが現れては消えていく。生者と死者、真実と虚構のあいだに。スピーノはノーボディの軌跡をさまよい、ノーボディはスピーノの旅路で舞っている。その戯れは、静かでいてエキサイティング、手掛かりがないようでいて自信に満ちているが、最後まで、何の答えも生み出さない。
「建物の隙間と、ほそながい廊下のような空を背景に、高いところでなびいている洗濯物のあいだから、かみそりの刃のような光線が、枯れてしまった花輪や、新聞紙や、ナイロンのストッキングなんかのゴミの山を照らしている、ちょうどそのあたりを、風は、渦を巻いて通りぬける。」
 この不思議な物語は、タブッキの描く光と影が織なす境界線によってふちどられる。その輪郭があって初めて、私はスピーノと一緒に、捕えどころはなくても爽快な旅に出ることができる。行くべきところを持たずにあくまでも迷っているだけ。そして目の前にあるものが現実なのか幻想なのか、とりあえずどちらでもいいことにしたままで。
  そんな曖昧さに身をゆだねて、水平線まで歩いていきたい時もあるのだ。


『遠い水平線』
アントニオ・タブッキ著
須賀敦子訳
1996年
白水Uブックス 
870円(税別




 人についてでもモノについてでも、私は書き手の愛着や思いが素直に伝わってくる文章が好きだ。そんな文章に出会うと、話しの展開は打っ棄って、ただその言葉がずっと続いてくれたらいいのに、と思う。それでも如何せん私は感動屋だからあまり珍しいことではないのだけれど。

 「蕭々館(しょうしょうかん)」の主人、児島蕭々は小島政二郎のこと。そして蕭々館のメンバー、九鬼さんは芥川龍之介、蒲池さんは菊池寛である。帝大で美学を教えている意地悪な博学家迷々さん、精神科医で詩人の並川博士、寄席通いが仕事の金貸し業中馬さん、いつまでたってもうだつの上がらない中央公論の新米編集者雪平さん、そして知恵が貯まりすぎると大頭を支えきれずに倒れてしまう「大頭脳」比呂志君(6歳)。彼らにも実在のモデルがいるのかもしれない。毎晩のように繰り広げられる蕭々館での衒学談義に同伴して「日録」を語るのは蕭々館主人の娘、岸田劉生の「麗子像」そっくりの格好をした麗子、5歳である。 
 麗子は「この世でいちばん上座に座るのは、文学よりもマルキシズムよりも、<色気>だとあたしは思う」と言うだけあって、彼女が描く蕭々館の人々は何かが欠けていながらも魅力的だ。麗子を通すと迷々さん等が得意になって話す箸にも棒にもかからない知識の数々は、滑稽なお伽噺のようになってしまう。そして彼らがお互いをおちょくったり思い遣ったり、そういう機微が「アイスコーヒー」や「葦原将軍」や「ミツワ人参葡萄酒」や「棒原の原稿用紙」という他愛ない話題の隙間から見えると何ともいえない幸せな気分になる。もちろん、そうした感情の中心はいつも「ボンヤリとした不安」に掠められて死へ向かって行く九鬼さんである。
 語り部の麗子は九鬼さんが好きだ。九鬼さんを見上げる麗子の目はいつも潤んでいる。そして比呂志君を含めた蕭々館の人々は弱ってゆく九鬼さんをまるで保護者のように見守っている。九鬼さんの話をしながら泣いたりする。そんな潤んだ眼差しが、どうでもよい博学や文学談義の上で交差するものだから、この「高等遊民」たちの記録は優しくて色っぽいものになる。
 麗子の絣銘仙、墓場に咲き乱れる彼岸花、彼岸花の色を溶かす夕日、、。昭和の入り口から振り返った大正はいつも朱色のキャンバスの上に描かれる。私は真っ赤な赤は好きじゃないけれど、ぼんやりした朱色は好きだ。だからなのか、九鬼さんや蕭々先生が懐かしむように、見たことのない大正の風景を私も懐かしく思う。そして、九鬼さんが「ヴェロナール」と「ジャイール」を飲んで死んだ日、麗子は「麗子ちゃん。君の赤い銘仙は大正の誇らしい色だ。どんな色よりもきれいな、時代の色だ・・」と九鬼さんに言われた朱い着物を脱ぎ、華やかで儚い時代に終わりを告げる、、。
 読み終わっても何度となくページをめくってしまう。どこをめくっても蕭々館の匂いが漂ってくる。哀しいけれど潔くて明るい匂いである。



久世光彦著 
2001年
中央公論新社 
2200円(税別